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2005年12月31日 (土)

ブログ元年

僕がこのブログを始めたのは2005年、今年の1126日だった。それから1ヶ月ちょっと時間が経過した。

始めた動機は、建築士、弁護士、公認会計士、といった士の犯罪だった。そのうちに、お隣の韓国で、21世紀最初の大事件、ES細胞疑惑がもちあがった。こうした問題について考えていきたい。僕自身は、考えるのではなく、自分で調べるほうが向いているし、面白いのだが、最近はフットワークが落ちている気もする。

2006年の課題は、体力か? 今、新年早々を目指して、重要な文献と取り組んでいる。それに没頭している。本物の文献を読みとくのは本当に楽しい。

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2005年12月29日 (木)

中国政府の本音が垣間見えた?

人の死は何年たつと忘れられるのだろうか。

被害者は何時までも覚えており、加害者は忘れてしまう。その典型例が、上海の日本領事館勤務の日本人外交官の自殺報道でも繰り返された。

日本人外交官の自殺が明らかとなり、日本政府は中国政府に外交官の安全を守るのが国際法上も受入国の義務でありそれに反したことが行われた、と抗議した。当然のことだと思う。それに対して中国政府は反発している。中国の反発について「朝日」のインターネット版(http://www.asahi.com/politics/update/1229/002.html)によってみていく。

「中国外務省の秦剛(チン・カン)副報道局長は29日の会見で」「強い憤り」を表明し、さらに次のように発言したという。「中日双方でこの件の性質についてはすでに結論が出ている…(自殺から)1年半もたってから日本側が再び取り上げ、自殺と中国当局者を関係づけるのは、別の意図があることが明らかだ」。さらに記者の「すでに出た結論とは何か」という質問に対し、背景には一切触れずに、「自殺ということだ」とだけ答えたという。

ずいぶん紋切り型な答えだと思うが、外交官が「敵対的」な物言いをするときはこんなものかもしれない。しかしこの答えで、歴史問題に対する中国の本音が透けて見えた気がした。

「1年半も」の「も」というところだ。僕らからすればわずか1年半が経過しただけだ。そして隠されていたと思われる問題が出てくれば、それについて再調査するのは当然のことだ。それを「すでに結論」が出た済んだ問題というのは受け入れがたい。この問題は、殺された側からすれば、どれだけ時間が経過しようが何も変わらないのだ。

今回の中国側の論理からすれば、日本と中国とは1945年までの戦争の問題については、1972年9月29日の日中共同声明で「結論」が出ている。それを日本の敗戦から「60年も」、共同声明から「33年も」経過してあれこれ言うのは、何か「別の意図がある」のではないか、と考えることになる。なお蛇足だが、靖国神社にA級戦犯が合祀されたのが1978年であることは知っている。

問題は、時間の経過の長短ではなく、問題の性質そのものにあるのではないだろうか。しかし今回の中国政府の対応は、僕にとっては中国政府が日中戦争について、日本に投げかける問題の本音を垣間見た思いだ。中国(政府?)のご都合主義がはっきり出ており興味深い。

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2005年12月28日 (水)

IT入学願書の時代

韓国では大学入学試験への出願をインターネットで行っているようだ。

以下は2005年12月28日の「朝鮮日報」の見出しだ(http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/12/28/20051228000047.html)。

「大学願書締切日の受付サイト、サーバーのダウン相次ぐ 各大学で締切時間延長」

韓国がITに熱心なのは知っていたけれど、そこまでいっているのだ、と驚いた。日本では「願書」の入手はネットで可能というところが増えているが、出願までというのはあっても少数だろう。

僕はITを便利に使っているつもりだが、それでも失敗をしている。それとネットで何かを注文するとき、とても緊張する。乗物の切符などを購入する場合、ネットだと全部自己責任となる。ところが購入申込書に記入しての場合、メモを見ながら自分で実際に筆記用具を使い文字や数字を書き込むと、そこでいろいろ頭の中で、これでいいんだよねと確認している。さらに僕の字がきたないというか下手というか、読みにくいこともあり、多くの場所で確認される。そこでは相手と、言葉のやり取りがある。こうしたことも緊張感を和らげる。

ネットと比べ、手書きで購入申込書を作成する場合には、日時や行き先その他を書き込むたびに、頭の中で考え、確認している。また、口頭で購入する場合は、大部分のケースで相手は僕の言葉を繰り返す、そこで確認ができる。ネットだと、それを全て一人で、自己責任で、パソコンのディスプレイで行わなければならない。そのため僕は緊張を覚えるのだ。

願書をネットで送る緊張感というのはどれほどなのだろう。それともこんなことを考える僕は、ネット世代ではない、ということなのだろうか。ネットでゲームを楽しむ人、大学に入学願書を送る世代、にはそんな緊張感は無縁なのかもしれない。

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2005年12月27日 (火)

人口減で困ること…ってなんだろう

一人ひとりの個人は何も困らないのではないか?むしろ良いことが多々あるのではないだろうか。

大学の教員として身近な例で考えてみれば、大学や高校への進学が、「競争」が少なくなる分楽になるだろう。通学や通勤の移動も、電車の混雑緩和によって楽になるだろう。

個人として良い点は、大学経営や鉄道経営の面からすると人口減がもたらすデメリットだ。

大学は入学試験がなくなれば入学試験料という収入を失う。さらにはより良い学生確保のために各種の方策を凝らさなければならなくなる。鉄道会社は乗客の絶対数の減少にどう対応するだろう。運行本数を減らして、混雑状態を維持して、経費の削減に走るところもあるだろう。他方で、従来通りの運行本数を維持し、沿線に人々を呼び込む方法を取るところもあるだろう。人口減で、地価が下がり、あるいはアパート代が下がれば、人々は通勤や通学が楽なところにホイホイと引越しをするようになるだろう。

これまで大学は受験生を待ち、そしてその中から好みの人材を、多くは学力試験で、選べば良かった。しかし今後は、選ぶのは受験生の側になるだろう。受験生が自分の学びたい大学を、授業料や、講義・実習内容、ロケーションなどを考えて選ぶのだ。

これは私たち大学の人間にとってはきわめて厄介で、これまで経験しなかった事態だった。私が勤務する大学でも学生による授業評価などを数年前から行なっている。あと数年の大学全入時代の頃には、私たちの大学にあった評価方法も確立するだろう。

こうした流れは学生にとって悪いことだろうか。何かを学びたいと考えている学生にとっては良いことではないだろうか。しかし、大学卒業だけを目的にして、単位をとり易い科目で単位を集める学生にとっては、そうしたことができなくなり、良い傾向とは言えないだろう。

昨日、年金生活者の海外移住に関して、年をとるとともに若い人とのギャップ云々と書いた。僕自身も、今の学生をみて昔と比べると変わったのかなあと思う半面で、それは年をとった、老いさらばえたことの反映ではないのか、とも考えている。大学の教員が、今の学生と、自分が若かったときの学生とを比べることは意味がないことであり、単なる老化現象だと思っている。

一般企業で、常に大人と接していた年金生活者にとって、今のとは言わないが、若者と接するのは戸惑うことも多いと思う。特にニートといわれるような人々を目にすることが苦痛かもしれない。それが日本を離れる動機の一部となっているかもしれない、と考えている。

人口減でニートが減るかどうかは分からない。しかし入学試験や学校内、クラス内での競争の緩和で、他人と付き合うことが苦手な人も、今よりは他人とより良い感じで接触できるようになるのではないか、と期待できる。

人と人との直接のコミュニケーションが盛んになれば、電車の中で座席につくとすぐに携帯電話を取り出し、メールをチェックし、返信をするという光景も減るのではないかと期待している。二人連れや三人連れが、それぞれ並んで座り互いに話をすることなく、一斉に携帯電話を取り出し、小さな画面に見入り、指を動かす様は、僕には異様で不気味な光景である。

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2005年12月26日 (月)

昔は「貧乏人の子沢山」と言われた…

2005年12月22日、2005年の日本の総人口は前年と比べ減少する、という見通しを厚労省は発表した。

それに関連して、「小泉首相は『必ずしも所得格差や政府が手を打っていないことが原因ではない』と、少子化の原因は多様であると強調した」という記事が出た(http://www.asahi.com/politics/update/1224/006.html)。短い記事なので「多様」の中身には踏み込んでいない。本当はその辺をきちんと伝えてもらいたいと思っている。

総人口の減少は、1899年に統計を取るようになってから始めてのことである。早晩、総人口が減少することは分かっていたが、その予測より2年早く「その時」がきた。少子化が進むと何が問題なのか。以下は2004年6月10日の新聞の見出しだ。「読売」は「出生率が過去最低の1.29、年金改革法“誤算”」、「朝日」は「出生率低下1.29、年金改革の前提揺らぐ」だ。

生まれてくる子供は、年金破綻を防ぐ「道具」にしか捉えられていない。

子供をこうした道具としかみていないのであれば、政府が手を打っても効果は限定的だろう。

近年、年金生活者の間で老後は海外で過ごすという生活設計が流行っている。これは長年日本に住んでいながら、老後は自分の住む場所、あるいは国を選びたいという願いをつき詰めると、日本で老後を送りたくないことに気付いた結果だろう。長年、日本で暮らした人が、日本で老後を送りたくないと思うことを真剣に考えないと、少子化の流れは加速こそしても、止まることはないだろう。なお僕自身は、老後を海外でとは考えていない。

年金生活者が、老後を海外でと考えるのは「日本が嫌」というだけでもないと思う。誰でも年をとれば若い人のやることなすことが気に喰わなくなるものだ。それも一因かもしれない。

僕は、自分の子供を大切に育てようと考える人にとって、日本は条件の良い国ではない、むしろ悪い国になっているとみている。これまでに何回か書いてきたように、日本は国民の安全をないがしろにしている国だという意味で、まっとうな人にとって子育てに条件の悪い国となっている。そして国は、自己責任できちんと育てた子供を、年金破綻の防波堤程度にしかみていない。

この続きはまた後日書くが、僕は総人口の減少はそんなに悪いことでもないのではないか、と考えている。

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2005年12月25日 (日)

データの捏造、犯罪かインチキか

設計の耐震偽装問題が明らかになり、それに続いて科学論文の偽装も明らかとなった。

科学論文の偽装は、世界的注目を浴びたものでは韓国の大学教授によるES細胞についてのものが、国内的には、多分その道の専門家だけが関心を示すだろう、東大教授による遺伝子についてのものが、明らかとなった。

科学論文は、また建築設計も日本では、基本的には性善説に基づいた取り扱いがなされている。偽装はそこにつけ込まれた。

「偽装」ということで建築設計と科学論文とを並べたが、人々の生活にとっての意味は月とスッポンほどに違うだろう。どっちが重要か。僕は圧倒的に建築設計の偽装問題が重要だと思っている。それゆえこれまで「強度偽装犯罪」あるいは「耐震偽装犯罪」という言い方をしてきたが、ここでは並列的にみるために耐震偽装問題という言葉を使っている。

科学の進歩や人類の福祉、といった大問題からすれば科学論文の偽装の方が重要かもしれない。しかしそれは早くてもひと世代くらいの時間が経過した後で実現しているかもしれない、画期的治療法の進展が少し足踏みした、という程度ではあるまいか。韓国の教授のデータの捏造がどの段階のものかははっきりしないが、ある時期、研究競争で彼に負けたと判断した世界中の研究者が方針を転換し、本来えられたであろう重要な結果を逃している可能性もある。しかし、その失われた時間は数年だろう。ひと世代という時間からすれば、そうたいしたことではない。むしろ、今回のことでES細胞の作成が容易ではない事実があらためて確認された、それが今回の騒動で科学的には一番重要な点だろう。

偽装論文はいずれ、インチキが暴かれるときが来るはずだ。それは専門家集団の中で、同じような研究をしている人間が、韓国の教授あるいは東大教授のあげた成果を、彼らが記述している方法で再現(追試)しようとするからだ。最初は、追試がうまくいかないのは、自分の技量のせいだと考えるだろうが、いくら精密にやっても、誰がやっても再現できない、となればそれは論文そのものの妥当性の検討に進む。そうしていずれインチキは明らかとなる。

建築設計の偽装が犯罪だというのは、第一には人命にかかわるからだ。しかしもうひとつは、建築設計の場合、追試をする人がいない、あるいはいるとすればそれは居住者という建築については素人がそれだ、という点だ。

科学の場合、インチキ論文を書くのも、それを追試するのも、同じ専門家である。しかし建築の場合は、インチキをするのが専門家で、追試を迫られるは素人だ。

そのため、日本では建築確認などのルールを法律が定めている。しかし今回はそれが、役所の建築確認作業も含め、機能していないことが明らかとなった。

こうした構図でみると、悪いのは構造計算でインチキをした建築士だけではなく、そうした舞台を提供した国の責任が大きい。その意味で今回の問題の主犯、あるいは黒幕は国だと考えている。

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2005年12月24日 (土)

ジャーナリズムの役割、ES細胞の場合

ほぼひと月前に袋叩きにあった番組の名誉が回復された。

2005年11月22日、韓国MBC(文化放送)はニュース番組「PD手帳」で、ES(胚性幹)細胞研究者で韓国の国民的英雄だった大学教授の研究にかかわる疑惑を報じた。その報道を受けて、大学教授は辞職を口にした。それに対して韓国の人々は、疑惑の検証より、国民的英雄を槍玉に挙げた番組やそれを放映した放送局MBCに批判の声を向けた。そのため番組スポンサーも下りる事態となった。この状況について韓国大統領は「批判を許さない画一主義が圧倒する時、人間はいつも恥ずかしい歴史を残す」と述べ、韓国の人々の性急さを戒める談話を出した(http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/11/27/20051127000025.html)。

MBCは12月1日、告発の第2弾を放った。舞台は、同社のニュース番組「ニュースデスク」だった。そこで同教授チームのES細胞の真偽について詳しく報じた(http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/12/02/20051202000071.html)。当然?、MBCへの風当りは一層ひどくなった。

僕にとっては、韓国の教授が虚偽の論文を発表したことより、MBCの報道の姿勢に関心がある。MBCがどのようにして、大統領の談話も触れているような、韓国国民の「熱情」を知った上で、あえて「国民的英雄」を批判する調査を開始し、どのようにして自分たちの取材内容の正しさを確認したのかに関心がある。

MBCは最初から教授を批判するつもりはなかったかもしれない。むしろ英雄を英雄として描くための取材を進めるうち、卵子の入手について問題を発見したのかもしれない。研究チームの一員である女性2人から卵子を入手していた。教授は「自発的」提供と説明していたが、教授と女性との力関係によって、すなわち圧倒的に女性が弱いという条件で「提供」されたものと判断できる。さらに研究支持者からの善意で提供されたはずの卵子が、買い取られたものであることも明らかとなった。

こうしたほころびが疑問点となり、さらに取材を深めるうちに本体のES細胞そのものの疑惑にたどり着いたのではないか、と想像できる。

しかしこれは僕の想像だ。実際にどうだったのかはそのうちMBCが明らかにするだろう。今回の報道は、日本だったら新聞協会賞に値する大スクープということになるが、それでは収まらない世界のそうした賞があればそれにふさわしいものだ。

日本では最近、東大の教授で国のジーンファンクション研究センター長も兼任している研究者が、数年間にわたり遺伝子研究でデータを捏造し、それで何本かの論文を発表していたことが明らかとなった。捏造でも、韓国で今回明らかとなったものと比べれば、極めてスケールが小さい。東大教授の捏造を報じても、12月12日に取り上げた科学ジャーナリスト賞の候補にすらならないのではないだろうか。

ES細胞疑惑の韓国の教授は獣医学の研究者だった。それで『エンブリオ』(帚木蓬生、集英社、2002年)の主人公、岸川卓也が獣医学部を卒業した後、医学部に入り直し、医者となったという経歴を思い出した。

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2005年12月21日 (水)

国民の健康より財政を大切にする日本政府…、まさか!

僕はタバコの煙が嫌いだ。

来年度からタバコの税金を上げるという話を聞いて、タバコの値段が上がり、少しでも禁煙する人が増えると良い、と期待していた。しかし、税金は1本につき1円、1箱20円のわずかな値上げだ。これで禁煙する人はほとんどいないだろう(今20本入りはいくら?300円くらい?ヨーロッパでは最低でも500円くらい、高いところでは1,000円近いところもあるようだ)。

「禁煙広報センター」(http://www.kin-en.info/newsletter.html)という団体があり、そこが2005年12月14日に発表したタバコの値段とタバコを止める人の割合についてのデータを基にして、日本政府の収入を試算してみた。現在の総売り上げを、300円×100人=30,000円とする。

1箱400円、1本5円値上げだと、4分の1の人が止める。これだと、タバコの総売り上げは、400円×75=30,000円。
1箱500円、1本10円値上げだと、半分が止める。この場合の総売り上げは500円×50=25,000円。
1箱1,000、1本35円値上げだと、4分の3の人が止める。この時の総売り上げは1,000円×25=25,000

今回の1本1円の値上げだと、320円×100=32,000円となる。政府にとっては、毎年、1本1円ずつ値上げするのが、税収を増やすには最も適切な「戦略」ということになる。僕はもうこれは、戦術ではなく長期的な戦略だと判断している。

他方で、「厚生労働省は8日、医師による禁煙指導を『治療』と位置づけ、公的医療保険の給付対象とする方針を固めた」(http://www.asahi.com/health/news/TKY200511080508.html)というのが、2005年秋の禁煙をめぐる政府のもうひとつの対応だ。禁煙外来に通うと1ヶ月4万円程度かかるが、保険だとその3割を負担すればすむ。健康保険としては新たな出費だが、禁煙者が増えれば、生活習慣病や肺がんが減ることが期待される。それで医療費全体が抑えられ、8年目から禁煙治療費の出とがんなどの治療費の削減との収支がプラスになるという試算が出ている。それが禁煙治療(喫煙は病気なのだ!)に健康保険を適用する前提なのだ。10年スパンでものを考えるのは、容易ではないが必要なことだ。

1円値上げだと32,000円、5円だと30,000円、10円でも35円でも25,000円。政府は32,000円の収入を確保する道を選んだ。短期的な経済合理性からすればこれは正しい判断なのだろう。

しかしこの判断は、禁煙治療に健康保険を適用しようという判断と比べると、国民の健康、これも重要な「安全」問題だ、に対する配慮あるいは考察を、さらに言うと健康増進を図る意志を欠いたものだ。

この例から言えるのは、日本政府には一貫性が全くないということだ。僕は、自分の国の政府に、国民の安全を守り増進するという観点に立った、一貫した政策を期待している。いつ実現するのだろうか。

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2005年12月19日 (月)

病理標本は誰のもの?

2005年12月18日、日曜日、「病理標本は誰のものか」という勉強会に出た。

これは僕がその創設、1990年、からかかわっている「軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会」(以下では「人骨(ほね)の会」と略記する)による勉強会だった。「人骨(ほね)の会」は1989年7月に軍医学校跡地で発見されたヒトの骨の身元、それが無理でも人種の特定を求めて活動を開始した。

ヒトの骨が発見されたとき、現地では厚生省予防衛生研究所、現在の厚労省の感染症研究所が建築中だった。発見されたヒトの骨は100人ほどのヒトから採られたものであることが、1992年4月に公表された鑑定によって明らかとなった。この鑑定は新宿区の依頼で、元科学博物館の人類学者で、この分野で第一人者の佐倉朔が行ったものだ。鑑定はさらに頭骨には拳銃で打ち抜かれた痕や、のこぎりでL字型に切られたものなどがあることも明らかにした。これは発見されたヒトの骨が人体実験あるいは、治療実験の結果、遺棄されたものである可能性を示している。

しかし佐倉鑑定でもっとも重要なポイントは、モンゴロイド系の複数の人種が混在している、という指摘だろう。つまりアジア系の複数の人種から採られた骨だ、日本人以外の骨も含まれているということだ。軍医学校というのは1945年の敗戦まで、日本陸軍の軍医の総本山だったところだ。そこから複数人種の骨が出た、しかも頭に傷のあるそれ、ということは、それら骨は日本人由来のものではない、と推定することが妥当だと考える。

こうした鑑定結果もあり、「人骨(ほね)の会」では骨の由来を明らかにし、遺骨をその遺骨にふさわしい場所に還すべきだ、ということで活動を続けてきた。

軍医学校跡地で発見されたヒトの骨は「遺骨」であると同時に、いくつかは標本だった。この標本は、多分実験の末標本とされた人、あるいはその遺族のものだろう。これら標本を「遺骨」と考えれば、それが誰のものであるかは議論の余地はなくなる。

軍医学校の骨を離れて、純粋に医学的な「標本」の場合、それを医学的見地から作成した医学者の所有物であるかのごとき取り扱いがなされることが、少なくとも数十年前までは一般的だったようだ。今でも、個人の所有権は主張しなくとも、それら標本を収集してきた組織が、あたかも自分たちのものであるかのような態度をとることがある。

軍医学校の骨に戻ると、一つひとつの遺骨の人種も、名前も分からない。となると、それが発見された国で、礼を失しないように保管することが求められる、ということになるのだろう。現在、感染症研究所の敷地の一角に安置所が設けられ、そこで保管されている。花などを手向けることができる施設となっている。

軍医学校は軍医の総本山であったと同時に、その防疫研究室は満州第731部隊の神経中枢だったが、731部隊で人体実験をされ、体の一部を標本とされたアジア人がいた。それら標本は、第二次大戦後米国に運ばれ、現在行方がはっきりしない。

僕は、それら標本も、軍医学校の骨と同じく、由来を調べ、元の土地に還すべきだと考えている。そのためには、日本は米国に標本の返還を求める必要があるが、返還を求める根拠は「所有権」なのだろうか?今回の勉強会は、そうした標本は誰のもの、誰が所有者に代わって発言できるのか、ということをはっきりさせるための第一歩だ。

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2005年12月15日 (木)

こころの問題、精神の自由

昨今の殺伐とした世相に「こころ」などは似合わない…?

小泉首相は、12月14日、旅先のクアラルンプールで自身の靖国神社参拝についての批判に対して「心の問題、精神の自由だ」と切返したという(「産経新聞」が掲載した共同電http://www.sankei.co.jp/news/051214/sei059.htm)。

「日本経済新聞」だと次のような文脈での発言と分かる。「平和への祈りや、戦没者への哀悼の念は心の問題、精神の自由だ。お参りへの批判は理解できない」(http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20051215AT1E1400B14122005.html)。

こころの問題というなら、哀悼も蔑視もこころの問題だろう。人を憎むこともこころの問題だ。厄介なのはこころの問題は内面の問題であり、哀悼か憎しみか、あるいは蔑視かは、当人しか分からないことだ。実は当人自身、いろいろな感情が混ざり合っていて、判然としないということもあるだろう。

日本のようなある程度民主的で、国会議員が選挙で選ばれる国の首相が「精神の自由」を言うのは、それなりに説得力はあるだろう。だが、彼は「精神の自由だ」という言葉を、どのような哲学的意味、あるいは社会的意味を込めて発言しているのだろうか。基本的人権の一部としての精神の自由なのか、それとも「今は勉強する気分ではない」という小学生的な精神の自由なのか?当然、前者だと考えたい。

しかし、基本的人権としての精神の自由を言うのであれば、他の人々の精神の自由や悼みをどうとらえているのだろうか、と気になる。総理大臣があるいは国会議員が靖国神社に、これ見よがしに参拝することでこころを傷つけられている日本人がいる。そういう人々に「精神の自由だ」と述べるのは「何をしようが俺のかってだ」と言うのと同じで、説得力がないどころか、傷に塩をすり込むようなものではないのだろうか。

また、精神の自由は基本的人権の一部なのだから、他国の干渉を受けないということか。だとすれば、現在日本国内で、卒業式や入学式で日の丸掲揚や君が代斉唱に関する「業務命令」に従わなかった教員たちが、彼らの精神の自由に従ったということで処分を受けているのは大変奇妙な現象ということになる。

もうひとつ我々の総理大臣のクアラルンプールでの言動で気になったことがある。

彼は「精神の自由だ」発言の前日、ASEANの首脳会議で「一つの問題で首脳会談が開けないのは理解できない。時間がたてば(靖国参拝も)理解される」と発言し、中国を批判したという(「読売新聞」http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20051213i104.htm)。

彼は、しかし、衆議院で可決された「郵政」法案が、参議院で否決されたという理由で、衆議院を解散した。そして「郵政」という唯ひとつの論点で選挙を行なった。中国にとって彼の靖国参拝は、彼にとっての「郵政」と同じように重要な問題だと理解しようと努力すれば、より優位な立場で中国と話をできるのではないか、と考えている。今は、理解しようとする努力が感じられない。

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2005年12月13日 (火)

建物と株の混乱、ITが悪いわけではない…

今回の強度偽装犯罪で構造計算のためのコンピュータ・プログラムが注目されている。また、東京証券取引所での株の大量の空売りでは、コンピュータシステムの不備が明らかとなった。

構造計算プログラムは使用者の善意を信じて、改ざんなどありえないという前提で組まれていたという。東証のシステムは、上場初日に株価が乱高下することはないという見通しの下で、常識はずれの注文でもかってに修正し受け入れ、その取り消しができない仕組みとなっていた。すなわち間違ったデータが打ち込まれることは想定されていなかった。

東証のシステムは、最初から間違ったデータの入力は想定外だった。他方、構造計算プログラムの場合、故意に間違ったデータが打ち込まれることは、性善説からすれば当然ありえない話なのだろう。しかし、よくあることだがミスで、勘違いで間違ったデータが打ち込まれた場合はどうなるのだろう。コンピュータは、この場合も、あるいは悪意による誤ったデータの入力の場合も、公正なものが入力されたときと同じように、データ処理を進める。

こうみると、東証のシステムも構造計算ソフトも、ミスをミスとして把握できない仕組みとなっていたことが分かる。

入力ミスはおおむね、桁を間違えることが多い。力を一桁余分に、すなわち基準の10倍にして計算するとどうなるのだろう。あるいは、仮定の話として、縦の柱と横の梁にかかる力を、取り違えて入力したらどうなるのだろう。ある意味現実となったのが、今回の東証の問題で、株価と株数の取り違えだった。

これと同じような大失敗を僕はした。それについては、12月1日に「大失敗、IT故か」に書いた。僕がこうした失敗をしたからといって、他の人もするだろうとは言わない。しかし今回の強度偽装犯罪では、基準からの桁違いの逸脱とまでいかないが、故意によるそれに近い水準の逸脱を、検査機関(自治体も民間の機関も)は見落としていた。それも1回や2回ではなく、5年くらいの期間にわたってだ。

東証のシステムの問題は人の命が絡むわけではない。各証券会社で金銭的対応は可能だろう。さらに今回のできごとも、震源地の証券会社では発注段階で間違いを指摘したシグナルが出たのだが、それを無視して発注を強行したことも問題だった。最初はITの警告を無視したミス、次いでミスを想定していなかったミスが、400億円の損害を生み出した。それで終りだ。しかもその損害も今後こうしたミスを防ぎ、証券市場の健全な運営に資することができれば、それを取り戻すことができるだろう。そうあってほしい。

構造計算プログラムの方は、これまで幸い大きな地震が起きていなかったために人的被害は出ていない。しかし、一部の建物について、本来ありえないことだが、震度5程度の地震で倒壊するというデータが出ている。こうした建物は、問題の建築会社・元建築士・開発業者以外のものでも、横の力と縦の力を取り違えた単純なミスが見過ごされていれば、建っている可能性はあるのだ。今後、多くの建物について点検が進めば、ミスを見逃す、あるいはミスを認識できない仕組みのプログラムに基づいて建てられた、地震の際に人命を守れない物件が出てくるのではないかと心配している。

性悪説に立ってことを進めるべきかどうかは分からない。しかし、コンピュータシステムの設計は、人は間違いをおかすという前提で設計し、時々見直し(バージョンアップではない)をする必要があるのだろう。こうしたシステムにこそフェイルセーフの考え方が必要だ。

人はどんなミスをするものかを徹底的に洗い出すことで、より安全なシステムが生み出せるだろう。しかし、ミスの洗い出しというのは、何か後ろ向きで、心弾まない、作業だ。言うのは易しいが、誰がやるのだろう。

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2005年12月12日 (月)

科学ジャーナリスト賞

2006年5月、第1回の「科学ジャーナリスト賞(JASTJ)」の表彰式が行なわれるという。

科学ジャーナリスト賞、本来は「科学技術に関する報道や出版、映像などで優れた成果をあげた人」に与えられるものだ。それは分かっているが、第1回の受賞者は、それが元設計士か、開発業者か、建設会社経営者か、それともそれを許してきた役所の人間かはともかく、耐震偽装犯罪の中心人物こそがふさわしいのではないかと直感的に感じた。今一番印象深いのは、テレビの画面で淡々と話をした元設計士であり、国会の参考人質疑で声を荒げた開発業者の2人だ。受賞者を1人に絞れといわれたら、開発業者を押すだろう。

これは奇をてらってのことでも、賞を貶めるためでもない、率直な気持ちだ。

僕は病気になれば医者にかかり、与えられた薬は飲む。科学的な知見をないがしろにする気はない。むしろ人並み以上に科学の達成を尊重し、重視していると思う。それゆえに、科学(界)における嘘や偽り、非専門家を欺く行為に憤りを感じ、それを暴くことをやってきた。そうした科学者の裏切り行為の実例として手っ取り早い、あるいは「お手軽」な例が1930年代から45年にかけての戦争中、軍部に協力し、時に当時としても許されない人体実験を行ない、被験者を最終的に殺害した医者たちだ。

ところが今回の強度偽装犯罪は、今現在進行中だが、設計者、建設者、開発者、審査担当者、といった建築の専門家(プロ)がそろいもそろって自分の責任を果しておらず、彼らの裏切り、嘘偽りは先にあげた医学者を凌駕しているかもしれないと感じている。

戦時中の医学者は「国のため」と称して人体実験を行ない、後にそのデータを使い自分のために論文を書いた。

今回の登場人物は、国が用意した舞台で、誰からもその正当性を疑われることなく踊っていたのだ。彼らは建築士という国家資格を身にまとい、開発業者は大臣あるいは知事から「宅地建物取引業者免許」を得、建設業者は知事から「建設業許可」を受けている。彼らが建築確認という国家によるお墨付きを示して工事を進めたとき、建築の非専門家が疑いを持ちうるだろうか。国によるこれだけの「規制」あるいは「チェック」があってもなお信じきれない人は「非国民」と言われるような人かもしれない。僕の「非国民」度は決して低くはないと思っていたが、今回の犯罪は衝撃だった。僕は自分が考えるほどには「非国民」ではないのかもしれないと感じている。

建物の設計や建築は理系の要素が強く、論理や合理で見つめれば「偽装」は暴けると思っていた。しかしその論理や合理の力が弱まり、その弱体化につけこむ周辺の人々が生み出したものは、地震だけでなく、長期的には自分自身の重みに耐えられない建物だった。

現在の社会で、経済性を抜きにした科学や技術の達成はない。科学技術の粋を集めた優れた製品は、製品化した企業に、負担したであろう莫大な開発費をカバーする以上の経済的利益をもたらすだろう。今回の犯罪は、ろくな開発費を負担せず、経済的利益だけを、国のお墨付きと建築という専門性を隠れ蓑にして獲得しようとしたものだ。

今回の強度偽装犯罪は、現在の日本における科学技術と社会とのありようを、多くの人の目に明快かつ端的に示している。今や科学技術を安易に信じてはいけないということを知らしめたことで、科学ジャーナリスト賞に値すると考えたのだった。

東京証券取引所における、株取引の発注ミスで数百億円の損害金が発生するが、その主たる原因は取引所の、コンピュータシステムにあったという。これなども、後日また考えたいが、科学ジャーナリスト賞に値する、ITの現実を皆に知らせているのではないだろうか。

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2005年12月 8日 (木)

国民の安全を脅かすもの

僕は武力放棄を宣言している日本の憲法9条を支持している。

その立場で人々の安全を考えてみると、軍事力で守れる安全とは何だろうと思う。百歩譲って、戦闘となれば自国民を守るために軍事力が必要となることはあるかもしれないが、1945年の敗戦の混乱期における日本軍の役割をふりかえると、軍というのはいざというとき頼りにならないものだという思いがある。平時にはどうだろう…。地震などの災害時には自衛隊は頼もしい存在だとは思う。それは理解できる。

人としての生活の根本は「衣食住」だ。戦争になればそれら全てが破壊される。1943年生まれの僕の戦後の数年間の記憶は「空腹」だ。地震や台風にまさる災害が戦争だと思っている。

安全の根幹は衣食住だ。今日本では戦争をしているわけでもないのに、その食と住が危うくなっている、あるいは危ういことが日々示されている。食は米国からの牛肉輸入に象徴される、農産物の輸入圧力であり、食料自給率の低下だ。

住は言うまでもなく、昨今の強度偽装犯罪だ。今回の犯罪によって、これまで多くの人が漠然と感じていた、欠陥住宅ではないかという不安が現実のものらしいことがはっきりしてきた。

強度偽装犯罪の実行犯である元建築士による偽装計算の結果、強度に問題がある建物の数は日々増えている。増加しているのは、最初の確認調査で問題なしとされたものが、他の自治体や機関での「見落とし」の例から自ら、あるいはより能力のある機関で再調査の結果、欠陥が明らかとなった例が多いためだ。耐震強度が法定の半分ほどしかないというのは、素人考えではきわめて危険な建物である。それを、そうした危険性が考えられるということで確認調査をした検査機関や自治体の建築検査担当者が見抜けない、というのが現在の日本の住の状況なのだ。これでは、今回の犯罪によって意図的に生まれた欠陥住宅・建物は氷山の一角で、建築および検査担当者の不十分な技量のため、結果として欠陥を持った建物となっているものも多いと考えるべきだろう。問題は元建築士がかかわった物件だけではないのだ。

今日国会は、14日に元建築士その他を証人喚問することを決めた。しかし対象を彼らだけにとどめては、前記のような広く、しかし深く潜行している住宅・建物の欠陥をそのまま放置し、問題の隠蔽につながりかねない。とりあえず、今回の犯罪がなぜ起きたのかの解明は必要だ。しかしそれだけでは不十分で、なぜ問題発覚後も強度偽装の見逃しが起ったのか、を明らかにすべきだ。今思うのは単にいち建築士や、悪徳業者のモラルの問題ではなく、建築工事推進のシステムそのものに問題があるのではないか、ということだ。

今回の犯罪を契機に調査が進めば、日本中の建物を総点検する必要が出てくるかもしれない。そうすればしばらくの間、建設・建築工事はモラトリアムとなってしまうかもしれない。他方で、これまで陽が当たらなかった構造を専門とする建築士に陽が当り、彼らの発言権が増すかもしれない。少なくとも総点検の間、彼らは忙しい日々を送ることになるだろう。他方で、国土交通省(昔の建設省)の存在意義が問われることだろう。

かつて日本の大学の建築学科は、地震国のため構造屋さんが主流だったという話を聞いたことがあるが、今はどうなっているのだろう。若い人々は、地味な構造を嫌うという傾向があるのだろうか。あるとすればそれは理科嫌い、あるいは理工系離れと軌を一にした流れかもしれない。

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2005年12月 7日 (水)

犯罪の黒幕は国?

今回の建物の強度偽装犯罪の主犯は誰だ?

前回(11月29日)と、今回(12月7日)国会は参考人を呼んで聞き取り調査を行っている。しかし今回呼ばれているのは、欠席した建築士(多分明日からは元建築士)や同じく欠席したコンサルタント会社の代表者を含め、皆実行行為者ではあるが、これが主犯というところまでいかない。むしろ、11月17日に国土交通省が約20棟の建物が危険であるという事実を公表して以降の経過を見ると、より大きな犯罪行為者は国ではないのか、国会に呼ぶべきは実行行為者ではなく、犯罪を許した、そしてさらにはうやむやにしようとしたふしのある国土交通省の担当者や大臣ではないか、と思える。

これまでに明らかになっているところでは、国土交通省は11月7日に、課長補佐が公明党の参議院議員の紹介で建設主のひとりと会っている。建設主は検査機関のミスで被害を受けた、国が補償せよ、と迫ったとされている。多分これ以前の段階で国土交通省は犯罪行為の存在は把握していたと思われる。

僕が、国土交通省が犯罪事実を何とか隠蔽し、うやむやにすませたいと考えたのではあるまいか、と判断する根拠は今年6月の最高裁判所の判決ゆえである。最高裁は民間の検査機関による建築確認であってもそれは公(自治体)の監督下で行なわれており、自治体の事務である、という判断を下して いる。この判断に従えば、今日国会に出席していた民間検査機関が偽装を見逃した責任は、最終的には国土交通省の問題なのだ。とりあえず言えることは、ミスが横行するシステムを放置したこと、そうしたシステムを作ったこと、の責任がある。

国土交通省はこうした責任問題が自分たちの役所に及ばないように努力したのではないのだろうか。そう考えるのは欠陥住宅問題が後を断たないという事実があるからだ。建築の素人を欠陥住宅の被害から守るのは公の責任だが、それが果たされていない。

役所にとって都合の良いことに、一時期、自民党幹事長は悪者探しは景気回復に良くない、という趣旨の発言をした。これはことを「穏便=うやむや」にすますということだ。これは自分たちに火の粉が降りかからないという、官僚にとってベストの選択だっただろう。

実際は、幹事長が考える程度のことは最初からやっていたが、時間切れか、ことの大きさゆえか、官僚の目論見通りには行かなかったということではないだろうか。

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2005年12月 6日 (火)

「自公のバーター」?

Yahooのニュースをみていたら、民主党の鳩山幹事長が講演で、防衛庁の防衛省への「昇格」(僕には庁から省になるのが何故昇格なのかは分からない)は、公明党が求めていた児童手当拡充とのバーター取引だと指摘した、という記事を「毎日新聞」が配信していた(12月6日19時36分)。

鳩山の指摘が正しいとすると、児童手当の拡充は、防衛省設置、さらには自衛隊拡充計画開始に向け「将来の兵力確保」のために道をつけた、という意味あいとなる。鳩山の指摘が正しくなくとも、児童手当の拡充と防衛省の設置が、セットで国会に提出されれば、それは上記のような意味を持つ。

少子化が問題となり、それに対する無策が言われている日本で、児童手当の拡充は意味のあることと考えている。しかし少子化の一番の問題は、将来の兵力が確保できない、ということでは断じてないだろう。児童手当の拡充で子供を持ちたいという親が、子供の将来は「兵力」あるいは「戦力」と考えたとき、安心して子供を持つだろうか。

もし公明党が平和を求める党であろうとするなら、ここはやせ我慢、児童手当も防衛省も我慢するべきだろう。しかしどうしても児童手当拡充の実現を図るのであれば、日本の子供のたちの未来を見据え、自民党を説得して、防衛省構想を断念させたうえで行なうべきではないのだろうか。それなしに、防衛省構想に賛成したまま、児童手当の拡充にはしることは、その未来が危険にさらされる子供たちの数を増やす結果となる。

手当てが増えればそれですむ問題ではない、どんな未来を提供できるかという質も重要なのだ。

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2005年12月 5日 (月)

民主主義、B・ラッセルの場合

以下は『西洋哲学史』(ラッセル、市井三郎訳、みすず書房)の第21章「19世紀思潮」の終りから2番目のパラグラフの全文である。

 
 今なお多くのひとびとが、人間の平等や理論上の民主主義を誠実に信じてはいるが、現代のひとびとの想像力は、本質的に非民主的であるところの、19世紀の産業体制が示唆する社会組織の型(パターン)に深い影響を受けている。一方には産業の首領、他方には、大量の労働者たちがいるのであって、内部からする民主主義のこの分裂を、民主諸国における普通の市民たちはまだ認めていない。しかしその分裂は、ヘーゲル以降の大部分の哲学者たちが専念した問題の一つであり、彼等が多数者の利害と少数者の利害との間に発見した鋭い対立は、その実践的表現をファッシズムの中に見出してきたのである。哲学者たちのうちでは、ニーチェが恥ずることもなく少数者の側に立ち、マルクスが熱誠をこめて多数者の側に立った。おそらくベンサムは、対立紛糾する諸利害の宥和を試みたところの、唯一の重要人物であった。したがって彼は、両方の側から敵意を蒙むったのである。
  

僕がこの本をはじめて読んだのは40年ほど前だが、このパラグラフがずっと心に残っている。心に残ったのは「民主主義」とは何か、ということによってだった。しかし今引用のために読み返して、ベンサムの役割に心惹かれるものがある。何故だろう。

40年前、まだ20歳そこそこで若かった僕が、このパラグラフが気になったのは、ラッセルが民主主義を理論や理想というより、利害対立の構造を持った社会制度として描き出していることだったように思う。そこに民主主義についての現実的な解釈に始めて触れた思いがした。それまで僕が知っていた、そして多分享受していた民主主義は、戦後民主主義というものだった。

これは僕なりに、戦後民主主義をふりかえる初めの一歩のつもりだ。

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2005年12月 3日 (土)

白リン弾とアカ筒

米軍がイラクで一般市民に対して「白リン弾」と呼ばれる兵器を使用した事実をイタリアの国営テレビが報じた。

イタリアの国営テレビはニュース専門チャンネルを持っているようで、その「RAIニュース24」が、2005年11月8日、その事実を伝えた。それによれば2004年4月のファルージャ制圧作戦に際し、白リン弾を使用し、それによって子供を含む市民が多数死傷した。映像では手足の肉が焼け落ち骨がむき出しの遺体、焼けただれ目鼻がはっきりしない子供の顔などが映し出された。

白リン弾は通常は証明弾として、あるいは発煙弾として使用されるようだが、焼夷弾としての威力も高い。米国国防総省はRAIの放送の後、「ファルージャではあくまで照明、煙幕用に使用し民間人を標的にはしてい ない」という見解を発表した。

しかし「毎日新聞」は「だが、今春、ファルージャ戦を特集した出 版物の中で、米陸軍が、市内に立てこもる武装勢力を対象にした『シェイク・アンド・ベイク(いぶり出し)』と呼ばれる攻撃に白リン弾を使用したと指摘して いたことが判明した。その中で陸軍は、『ざんごうなどにこもる敵に対して強力な心理効果を持つ非常に有効な兵器だ』などとした」ことを指摘している(20051130日、http://www.mainichi-msn.co.jp
/kokusai/news
/20051201k0000m030128000c.html)

表題のアカ筒のアカは化学兵器の一種、くしゃみ剤(米軍では嘔吐剤)だが、旧日本軍ではこれを効率的な「いぶりだし」用の兵器として中国戦線で使用してい た。塹壕の入口でアカ筒を加熱し、アカ剤を煙幕状に発生させ中に送り込み、立てこもっている中国人が中に居られないようにして、出てきたところを銃や剣で 殺傷したのだった。

似たような戦法を、沖縄戦の末期、米軍が多用した。米軍は「がま」に立てこもる日本人に火炎放射器を向け焼殺した。今でもその時の炎の後と思われる黒ずんだ壁をみることができる。

いぶりだし、という戦法は圧倒的な戦力を持ったものが、貧弱な装備ゆえに塹壕に立てこもる相手を倒す常套手段なのだろうか。と同時に、日本軍がアカ筒を 「いぶりだし」に使うようになるのは、戦闘が当初の予想より長期化し、士気が低下してきた頃から、すなわち「泥沼」に陥っていることがはっきりし始めてからの ことである。

こうした比喩で言うと、イラクの米軍が泥沼に足を取られていることを実感し始めたのが、開戦から1年が経過した2004年の春ということになるだろう。

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2005年12月 1日 (木)

大失敗、IT故か?

11月に『戦場の疫学』という本を出した。出版社は海鳴社である。

大失敗というのは、僕としてはめずらしく、きちんとした参考文献を付けた。単に参考文献一覧というのではなく、各記述毎に、必要な箇所に、その出典や証拠を明らかにするための「注」である。その参考文献・注で大失敗をした。4章の参考文献と、5章のそれとがそっくりそのまま入れ替わったまま、本を出版してしまった。本来であれば4章には注が38、そして5章には11付くはずが、4章に11、5章に38の注となってしまった。

引退した、そしてパソコンやワープロなど触ったことのない編集者から、活字を拾って本を作っていた時代にはそうしたことは起りえなかった、という指摘を受けた。パソコンは便利で、さらにその便利さの一部に、コマ切れで仕事を進め、最後にコマを集め、出来上がりというやり方が可能となったし、そして今やそれが一般化しているのかもしれない。

僕は、良く物事を細かく分けてみるのではなく、全体を見通し、その上で必要な箇所をアップでみることが必要と頭では分かっていたつもりが、分かっていなかったようだ。分かるとは、実は頭で考えているだけでなく、行動が伴わなければならないはずだ。

最後に本の宣伝を少々。本のタイトル『戦場の疫学』の疫学とは基本的には病気の流行の実態や原因を明らかにする研究領域だ。戦場とはどこかというと、1936年の浜松であり、1940年の新京(現在の中国、長春)である。この2つの都市で戦闘が繰り広げられていたわけではない。しかしあえて「戦場」という言葉を使ったのは、疫学調査を実行した主体が、石井機関(満州第731部隊はその一部)であり、このときの知見が、後の生物兵器(細菌兵器)使用のノウハウとなったことが一番の理由だ。

当時、浜松も新京も市民は平和に暮らしていた(少なくとも新京の日本人はそうだっただろう)。その街に食中毒(浜松)、ペスト(新京)が発生し、市民はパニックに陥った。そこに石井機関が登場し、彼らはそれら都市があたかも戦場であるかのように振る舞い、軍の権力を前面に出して生物兵器の使用に役に立ちそうな調査を行った。疫学調査もその一環だった。その調査で、どうしたら病気の流行を作り出せるか、他方で敵のそうした攻撃から日本の都市を守れるかについて、それなりの知識を得た。

浜松の食中毒も、新京のペストもどちらも自然の流行だった。これまで、特に中国の研究者の多くは新京のペスト流行は石井機関(731部隊)の謀略だという説を主張してきたが、僕の今回の本ではその主張が誤りであることを示した。少なくとも、新京での患者発生の状況を疫学的に分析すれば、それが人為的なものではないことは分かる。またそれ以外に、資料的にも人為的な流行でないことを立証したつもりである。それだけに、参考文献・注は大切だったのに、大失敗をしてしまった。

僕は石井機関・731部隊について30年くらい研究してきた、最初の本からでも既に25年ほど経っている。それで、この本でこの分野の研究はお終いにするつもりだった。しかしこんな大失敗をしたまま終わるのもしゃくにさわる。今一度、どうするか考えているところだ。この本の原稿を海鳴社に渡した頃から僕の関心は次のテーマ、多分10年くらいかかる、に向っていたのだが、さてどうしたものだろう。

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